戦場ヶ原の神戦伝説

古老による言い伝え

戦場ヶ原の地名は、神戦伝説に由来すると言い伝えられています。
昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野(こうずけ)の国(群馬県)の赤城山の神が領地を争いました。男体山の神は大蛇(オロチ)、赤城山の神は百足(ムカデ)に化身して戦ったという伝説から戦場ヶ原の名前がつきました。また、その際に戦いの流血で野原一面が赤く染められたので『赤沼ヶ原』とも呼ばれるようになりました。また、その戦いの兵糧を積んでおいた所が戦場ヶ原で唯一の丘(糠塚)であり、和議を結んだのが『勝負ヶ浜(菖蒲ヶ浜)』で、男体山の神が勝利の唄を歌ったのが『歌ヶ浜(立木観音)』であり、勝利の記念に残されたのが、中禅寺湖で唯一の小島、『上野島(こうずけじま)』であると土地の古老は語り伝えてきました。

現存する資料に基づく神戦伝説

二荒山神社に伝えられる古事によると、東山道下野国 二荒山の神(男体権現)が領有する中禅寺湖を巡り赤城山の神と神戦をしたという説話が鎌倉時代の頃から伝わっています。二荒山神社に現存する『縁起』は、巻子本の絵巻上巻のみですが、室町時代にこれを模写した『日光山並当社縁起』が残されています。また、上下二巻の大和風の繪巻物が、愛媛県大洲市の宇都宮神社に現存し、神戦図は下巻に載っています。この神社は、二荒山の神を祭った社であり、日光山縁起は宝物であったと記されています。

 下野国宇都宮城主 宇都宮薩摩守豊房 元徳2年(1330)3月 下野国より伊豫国守護に転封 第16代宇都宮城主 宇都宮右馬頭正綱、日光山縁起 文明9年(1477)5月11日奥書 9月9日奉納能範書之

本図(上記の図)は下巻より、二荒山の神が海山を守らんがため、后神である滝尾神社の神が金の星のある鹿に化身して、岩代国(福島県)と陸奥国(宮城県)の境にある熱借山で狩をしている弓の名人で男体権現の孫にあたる小野猿丸大夫を迎えに行き、加勢をもとめました。そして二荒山の神は大蛇に、赤城山の神は大百足に化身して戦い、猿丸の豪弓の前に大百足は敗退し、権現宿意をとげ、敵を滅したと記されています。以来 二荒の神は宿意が叶い、願い事が満たされるとして、参拝客が遠路からも訪れ、二荒山神社の繁栄を今につなげているのです。